花燃ゆ小ネタ②
桑山の東麓・防府高校裏すぐの坂の上に防府市護国神社という神社があります。
ここは元々幕末の諸隊の一つ、「御楯隊」の調練場として開かれた場所で、境内には御楯隊他、戦死した諸隊の隊士たちの顕彰墓が建てられています。夏頃、境内北の塔ノ尾(来目皇子の仮埋葬地は実はこの場所で、現在桑山頂上にあるのは英雲公が改葬した事によります。)頂上にある招魂碑を訪れた際は、木は生え放題、蜘蛛の巣とヤブ蚊が酷く、いつ幽霊が出てもおかしく無い様な有り様でした。
それがつい先日、市外の方を案内して訪れたところ、塔ノ尾の招魂碑を覆っていた林が切り開かれ、綺麗な看板も立てられ、来るべき来年の花燃ゆに備え整備されていました。
そんな立派な招魂碑と、立ち並ぶ顕彰墓を見ながら、全く違うことを考えました。
例えば、「御楯隊(後改め・整武隊)」は戊辰戦争を戦い、多くの戦死者を出しました。
この時戦死した隊士たちは、ここ護国神社に葬られ、中には贈位された人物もいます。
翻って、この戦いを生き抜き、凱旋した隊士たちの多くは、凱旋後間もなく長州藩により除隊を強いられ、現防府市域を焼いた脱隊騒動に参加。賊として藩政府により処刑されました。勿論、この時戦死した藩政府軍の兵士は手厚く葬られています。
更に翻り、この戦いで脱隊兵を鎮圧した藩政府軍の隊の一つに、藩の上士により組織されていた「干城隊」という隊があるのですが、彼らのうち多くは後、前原一誠の萩の乱に参加。賊軍として処刑される運命を辿りました。
そして顕彰されるタイミングで死ぬ事の出来た彼らもまた、時代の流れとともに多くの市民に忘れ去られ、花燃ゆにより再び注目されるこの日まで、蜘蛛の巣とヤブ蚊の飛ぶ密林に佇む状態に放置されていたのです。
目まぐるしく変わる勝者と敗者のコントラストに、また、顕彰された隊士と賊軍として処刑された隊士のコントラストに、彼らの戦った意味―歴史的な意味ではなく、彼ら個々人が戦った意味―を考えずにはおれませんでした。
また、生きて明治を迎えなかった多くの「志士」たち。松陰先生・高杉晋作・坂本龍馬・橋本左内・梅田雲浜…etc。彼らがもし明治時代まで生き抜き、彼らの後進達が造り上げた現実を見たとき、何を考え、どう生きるのか。さらに、もし自分がその立場にいたら・・・?
・・・そんなクダラナい妄想に浸れる、新しく整備された防府市護国神社、是非一度足をお運び下さい!
防府オフィス 窪田